この国の次の夢と新しい時代について

この文章は、僕が27年間生きてきて「自分のやりたいことは何か」ということについて考えを突き詰めて出した一つの答えです。
人生を賭けて紡ぎ出しました。
そして、これからの人生はこの夢を現実にするために生きることになります。お読みいただけると嬉しいです。

塾の講師として働いたとき、高校受験を控えたある生徒にこう尋ねたことがあります。
「将来何かやりたいことはないの?」

彼はこう答えました。
「ないですね。というか、あんまり大人になりたくないんですよ」
「どうして?」
「だって今が一番楽しいじゃないですか」

それはたった1人の中学生の些細な呟きです。

でも、僕はとても悔しかった。

「大人たちが楽しそうに見えない」と言われてしまったようで。

日本は今「退屈」という、見えないけれども分厚い雲に覆われている。そして、それは「あるもの」が足りないからだと僕は考えています。

この国の退屈を吹き飛ばすために、新しい風を吹かせたい。

その思いで書きました。

目次
問い
この国にないもの
かつてあった2つの物語
真っ白なキャンバス
新しい物語
学校と文化祭
なぜ「共闘」なのか?
生徒に言われたある言葉
この国はどこに向かっているのか
問い
「この国はどこに向かっているの?」
子供にそう尋ねられたら、あなたはどう答えますか。

「平和な国」
「経済的に豊かな国」

この2つに関しては、先人たちの多大なる知恵と努力と意志によって、一定水準を満たす形で達成されました。
今の僕たちの暮らしは、その集積によって成り立っている。
偉大なことであり、文字通り有難いことです。

先ほどの問いについて、あるいはこのように答えることができるかもしれません。

「差別がない国」
「格差がない国」
「過労がない国」
「犯罪がない国」
「人災がない国」
「自殺がない国」

これら1つ1つは、全て目指すべき国のあり方であると思います。誰もがそれを望んでいるでしょうし、僕自身も強く望みます。
実現するためには実に多くの時間と知恵と労力と意志を要するものであり、僕たちが皆で取り組んでいかなければならない国の共同的課題であるという点において疑義を呈する余地はありません。

ただし、これらの目標にはある共通点があります。

全て、「否定形」なんです。
何か問題が発生しているので、それを解決するという方向性の話です。

最初の問いはこのようなものでした。

「この国はどこに向かっているの?」
子供にそう尋ねられたら、あなたはどう答えますか。

その子が聞いているのは「行き先」です。

乗り物で考えると分かりやすいかもしれません。
自転車でも、車でも、電車でも、飛行機でも、ロケットでも、子供が親に「この乗り物はどこに向かっているの?」と尋ねて、「ハワイじゃないよ。沖縄でもないよ。遊園地でもなくて、よしおくんのお家でも、冥王星でもないよ」と答えられたら、どんな子供だってこう思います。

「そうなんだね。それで、結局どこに向かっているの?」

このシンプルな問いに、僕たちは中々答えられない。

どっちに向かうべきかわからない時、人は安心できる過去に戻ろうとします。
すでに持っているものの素晴らしさを見直し、自分の存在意義を守ろうとする。

しかし、僕らを取り囲む環境と時代は変わっています。人々の考え方も文明も文化も社会システムも変わっている。
進化している。
そのような状況で行き先のみ「元に戻ろう」というのは、まるで大きな大会で勝ち目がなくなり目標を失ったスポーツ選手が、地域の小さな大会で優勝して「やっぱりこの景色だよな」とどこか寂しげな顔でトロフィーを掲げているような光景を想像してしまいます。

この国にはすでに世界に誇れる「安全」があり「豊かさ」がある。その上で、さらにどこを目指すか。
僕たちが直面しているのは、そのような問いなのではないでしょうか。

この国にないもの
僕が生まれたのは平成3年、高度経済成長期がバブル崩壊と共に終焉を迎えた年です。
物心ついた時、社会はすでに不況であり、「私たちはどこかより良いところへ向かっているのだ」という国全体を包む希望の空気を吸った記憶を持たず、その匂いを知りません。
僕たちはそういう世代です。

僕たちには、知らないものがあります。
先ほど「国全体を包む希望の空気」と表現したものですが、それはもっと端的な言葉に置き換えられます。
それは誰もが幼い頃から、なんらかの形で人生を共にしているものです。
たとえ衣食住が満たされ、居心地の良いコミュニティーに属していても、僕たち人間はそれを求め、1つぐらいは心の中に大事に持っている。

物語です。

僕たちは、国全体が一つの物語を共有している状態というものを知らない。

ここではもしかしたら、一般的に皆さんの想像する「物語」とは少し違った意味合いかもしれません。

例えば、このようなものです。

「学力を高めれば、将来安泰に暮らせて幸せな人生を送ることができる」という物語。
「バンドで売れれば、自分を表現できてやりたいことができる充実した人生を過ごせる」という物語。
「出世をしてお金を稼げば楽しい生活が送れる」という物語。
「日々を慎ましく生きて信頼できる仲間とともに過ごしていく毎日が自分の人生なのだ」という物語。
「友達と一緒に過ごしているこの時間を大切にして生きる。そして、それはきっと大人になっても忘れない」という物語。
「私は弱い人の味方になって生きていくのだ」という物語。
「仕事で頑張って、大切な家族を守り育てていくのだ」という物語。

あるいは、小さい頃に読んでもらった絵本や、好きな本や漫画、アニメ、映画などの文字通り「物語」を、自分の人生になぞらえているかもしれない。

これらは全て、「自分という人物はこのように生きていくのだ」という物語と言えます。あるいは、自分の生き方の意味づけと言ってもいいかもしれません。
物語=意味づけ。それがないと僕たちは生きていくのが難しい。
特に生活に必要ではないのに、全世界で「映画」や「漫画」、「小説」「神話」などの物語が求められているという事実を鑑みても、僕たち人間が生きていく上で物語は必需品です。

かつてあった2つの物語
では、国は?
人が集まってできる国にだって、物語は必要となるのではないでしょうか。

僕が知っている中で、戦後この国に希望を与え、それが成し遂げられた物語は次の2つです。

「戦後復興」と「高度経済成長」。

「戦後復興」では、戦火で焼け野原となった国土から一つの国として再生するために、国民が手を動かしました。
「私たちは力を合わせて必ず、また1つの国として復活してみせるのだ!」そのような物語を信じて。

「高度経済成長」では、1つの国として再生した日本という国を、世界に認められるような国にしてみせようと、骨身を惜しまず働きました。
「私たちは戦後の焼け野原から復活した。そして、今度は世界に認められる豊かさを持った国をみんなで作ろう!」という物語に希望の光を見て。

もちろん、細かく見れば「国民全員が同じ景色を見ていた」というわけではないのでしょう。
しかし、少なくともその時期に「国全体が向かう先を広く共有していた空気感」というものが存在した。

存在した、らしい。

そういった大きな物語の先に、衣食住やインフラが整った平和で経済的・物質的に豊かな国が実現し、日本は「戦争のない世界第2位の経済大国」にまでなりました。

しかし、その後バブルは崩壊。
今、僕たちは「物語」を持ちません。
広い見方をすれば、今は大きな問題が解決された後に訪れるモラトリアム期間とも言えます。
次の行き先はまだありません。
この国には、物語がない。

真っ白なキャンバス
しかし、今物語がないということは、とても大きなチャンスです。
無いからこそ、新しく創ることができるからです。
まして、かつての物語の空気を吸ったことのない世代は、既存の成功体験にとらわれることなく、未知の方向に進んでいく純真さを持っている。

僕たちの目の前にはきっと大きくて真っ白なキャンバスが広がっているのだと思います。
血で塗られることもない、白いキャンバスに加え、筆やカラフルな絵の具まで用意されている状態です。
先行世代の方が用意してくれた夢のような環境です。
このキャンバスにどのような絵を描いていくかは、僕たち「新しい世代」にかかっている。

そこに、どのような物語を描こう?
今までにない、どのような「国の夢」を語ろう?
そんなことを考えていると、何だかワクワクしてきます。

僕たちが創る物語というのは、今までにない新しいものでなくてはなりません。
しかしそれと同時に、誰もがそれをどこかで知っていて、懐かしさすら覚えるものでなくてはならない。
「そうか、その手があったか!」と瞳に光が宿るような、そんな物語です。

知恵を絞って考えてみました。
こんな物語はどうでしょう?

新しい物語
平和や安全、経済的豊かさ。
この次に来るのは、「文化的な楽しさ」です。
そして「世界一の文化先進国を目指そう!」というのが、日本の次の国家的目標です。

文化先進国は、次のように定義します。
「多種多様な文化が熱狂し合っている国」
つまり、世界一の文化先進国とは「世界で最も文化が熱狂し合っている国」ということになります。

この国には数え切れないほどの文化が存在します。
読書文化、音楽文化、スポーツ文化、動画文化、ファッション文化、絵画文化、教育文化、伝統工芸、温泉文化、飲食文化。
細分化するなら、小説、ジャズ、アイススケート、YouTube、和服、現代美術、プログラミング教育、輪島塗、スパ、日本酒。
文化の枠組みや捉え方は、自由に考えればいいと思います。

もちろん、今までにない「新しい文化」を創り出して盛り上げていくのだって文化共闘です。

最も重要な点は、
「うちらの文化は面白い。だから、みんなにもっと楽しさを知ってもらいたい!だから、みんな、互いに切磋琢磨しつつこの業界全体を盛り上げていこうぜ!!」
という物語を一人一人が楽しむことです。

同じ趣味を持つ者同士でコミュニティーを作って世間に対し作品を発表したり、ステージに上がるのでもいい。

同じ街の同じ業種の店同士が、互いのオリジナリティを生かして、連帯し盛り上げてもいい。

同じ文化を信じるサービス同士で、その業界を盛り上げるために結託し、業界全体を潤すために新しいことをバンバン打ち出すのでもいい。

サイズに関しては大きな問題ではありません。

1つの文化を盛り上げるために、みんなで緩く自由に繋がり、他の文化同士でも刺激を与え合う。

そんな日常があれば、大人になってもきっと退屈はしない。

そんな社会があれば、涙が出るほど楽しいかもしれない。

異分野ごとに共闘しても面白いでしょう。
読書と音楽。
動画と和服。
アイススケートとスパ。
日本酒とジャズ。
組み合わせは無限です。

あらゆる文化の業界が、コミュニティが、個人が共闘して、自分の信じる文化を盛り上げるようとする熱狂の時代。

それを「文化共闘時代」と名付けました。

もしかしたらまだイメージしづらいかもしれません。
ヒントは、学校にあります。

学校と文化祭
この国の多くの人は学校に通った経験があると思います。
さて、突然ですが「学校」というものが成り立つためのフェーズはどのようなものがあるでしょうか?

まずは、校舎・講師・教室、そして授業というシステムや最低限の秩序を成立させることです。
授業をする場所があり、身体を動かせるグラウンドがあり、各科目を担当する先生と生徒がいる。最低限のマナーと校則は守られ、大きな問題がなく、日々の学びを進行できるインフラを整えることです。

それが達成されたら、次に学校が目指すのは、生徒の学力を高めることです。
成績を一定レベルまで上げて社会を生きていくだけの知識と能力を身につける。希望があれば、大学に進学できるぐらいの授業を用意する。
学校における生徒の本業は「勉学」であり、教師の本務は「勉学を教えること」です。

では、その次は?
今のままだとまるで学習塾や自動車免許の教習所みたいですね。
「とにかく勉強するための場所」のようなイメージです。
学校を学校たらしめているものは、何でしょうか?

僕は「文化的活動」だと思います。
部活、体育祭、遠足、図書館、修学旅行、文化祭。
これらの文化的活動があるからこそ、学校はただの「技能習得機関」とならず、カラフルで面白みのある場所になると思うのです。

まずは「学校の体裁を整える」。
次は「生徒の学力をつける」。
そして「文化的な豊かさを育てる」。

国も同じではないでしょうか?

まずはインフラと安全。
次に経済的豊かさ。これは数値で測れる豊かさです。
そして次に来るのは、数値化できない文化的な豊かさだと思います。

国も次は「文化的な豊かさ」を目標にする段階に来ているのではないでしょうか。

学校の文化的活動の中でも特に象徴的なものが「文化祭」と言えます。
各クラスや部活が、何らかの文化についてその魅力を伝え合い、盛り上がる祭です。
1人1人が信じる文化を持つ、というのは、学校で言えば「生徒全員が、心から打ち込める部活がある」という状態です(もちろん一般的に学校にない「部活」でもいいです)。
そして、自分の入っている部活の文化の魅力を伝えることにみんな切磋琢磨取り組んでいるような文化祭があったら、そうでない文化祭よりも断然面白い。

国も同じことが言えると思います。
1人1人がその価値を信じる文化を見つけ、それを盛り上げるために楽しく活動をしている国があったら、そうでない国よりもきっと面白いはずです。

平たく言えば、「一番面白い文化祭をやるのはどの学校だ?」と同じで、「世界一面白い文化国家はどの国だ?」というのが、新しい競争モデルになれば面白い。

なぜ「共闘」なのか?
一人一人が自分の信じる文化を盛り上げるために連帯し、競い合う時代。
それを「文化共闘時代」と名付けました。
「共闘」という言葉を使ったのは、2つの理由があります。

1つは、これからは連帯の時代であるということです。
「連帯」は、「孤立」とも「団結」とも違います。「孤立」は寂しく、力に限界もあります。「団結」は美しいですが、一枚岩という言葉を想像させるように、そこには柔軟なシステムと弾力のある余白が不足していると考えます。
人と人とがそれぞれのスタイルを尊重しつつ緩やかに繋がって、互いのやりたいことをしたり、共に楽しんだりできる協力体制、それが連帯です。

もう1つ、大きなパワーを生み出すには「競争の刺激」が必要と考えています。
もちろん、「各々が好きなことを緩やかに楽しんでいられる」というのはとても心地の良い状態であり、その環境があること自体一つの偉大な達成です。

しかし、みんなで手を繋いで1等賞をとるかけっこより、誰かが1等賞になろうとする徒競走の方が盛り上がる。
常にしのぎを削り合う抜き差しならない競争をするべきだということではありません。
それは「隣のやつがなんか脚速いな。ちょっと悔しいから、おれも練習して速くなってやろう」くらいの刺激です。
メンバーが「みんな同じぐらいでいようね」と思って仲良くしているグループよりは、「僕は少し上手くなったよ」「私は少し豊かに表現できるようになったよ」という結果を意識しているグループの方が楽しいと、僕は考えます。
スポーツも、芸術も、音楽も、文学も、技術も、学問も、商売も、競争がもたらす「刺激」なしでは、ここまでの発展はなかったことでしょう。
文化が盛り上がるのに「競争」は不可欠な要素です。

連帯し、競争して、自分の信じる文化を盛り上げ合う社会をつくりたい。
そのような想いを込めて新しい物語を「文化共闘時代」と名付けました。

生徒に言われたある言葉
冒頭にも書いた通り、僕は、塾の講師として働いた経験があります。
高校受験を控えた生徒に聞きました。
「将来何かやりたいことはないの?」と。
彼はこう答えました。
「ないですね。というか、あんまり大人になりたくないんですよ」
「どうして?」
「だって今が一番楽しいじゃないですか」

僕はこの言葉を聴いた時、衝撃を受けました。
彼のメッセージはこういうことになります。
「僕たちから見て、大人たちは楽しそうに見えない」

確かにそれは、たった1人の中学生の些細な呟きかもしれません。でも、僕にはその言葉が「今の10代の子供たちの潜在的総意」のように聞こえました。

「大人になるというのは、つまらなくなることだ」と。

彼にその言葉を言わせてしまったことに、途方もない悔しさと無力感と責任を感じました。
その時、僕は24歳で、社会を回していくサイドのいわゆる「成人」という立場に立っています。
1人の成人として、そのような言葉を子供に言わせてしまったことが悲しかった。
悔しかった。
もちろん、それを先行世代の方々や政治家、企業、親や学校の責任だなどと言うつもりはありません。
きっと、目に見えない何かの集積の結果なんです。
おそらくそういう時代なのでしょう。「退屈」が蔓延する時代。

でも、どうでしょう。
同じような言葉を今後も子供たちの口から聞きたいですか?

僕はイヤです。
今後「大人になったらつまらない」という言葉は二度と子供たちに、次世代の人たちに言わせてはならない。

解決法は案外シンプルです。

「大人たちの輝いている顔がそこら中に溢れている」
そんな時代が来ればいい。

「そんなのは夢物語だ」
「青臭いことを言ってるんじゃないよ」
「不可能だ。大人になるというのはそういうものなんだから」

本当にそうでしょうか?
僕は大人になって、日々自分の人生を面白そうに過ごしている人たちにたくさん出会うことができました。
僕自身、子供だった頃より今の方がずっと楽しいぐらいです。

子供はもちろんのこと、大人たちの顔も輝き出す。
それを可能にするのが「文化」です。

特定の文化のプロフェッショナルという立場からそれを盛り上げる人もいれば、仕事とは別の時間で文化に関わる時間を持つ人もいます。
働き方や生活スタイルは今の時代、多様化している。
その可能性と価値を信じられる文化を見つけて、共に楽しみ、自分らしい形でそれを盛り上げていく仲間がいれば、僕たちは、実は自分が思っている以上に素敵な表情をしていたりもする。

大人たちの顔が輝いていれば、子供たちだってこのように思ってくれる。

「自分も早く大人になりたい。
だって、大人たちはあんなに楽しそうじゃないか」

「文化共闘時代」はそのような風景を実現するために描いた物語です。
これが正解かどうかなんてわかりません。歴史を振り返れば、人々に希望を与える物語もあれば救いようもない悲劇を生んだ物語もあります。
でも今、僕がその可能性を信じ、みなさんに提案できる物語はこの「文化共闘時代」一択です。

この国はどこに向かっているのか
世界の先進国は、「平和」「経済的豊かさ」の次に競い合える指標を持ち合わせていません。
各国が抱えている課題を解決し、自国の文化や豊かさを守っていくというのが時勢なのではないでしょうか。

つまり、日本だけではなく世界的に見ても、「先進国」の次の向かうゴールをわかりやすく提示している国はないということです。

であれば、日本がロールモデルになればいい。
「経済的豊かさの次は文化的楽しさだ」
「経済大国の次は文化先進国だ」
「一人ひとりが自分の信じる文化を盛り上げるために連帯し、競い合う。そんな国を目指すのだ」

文化は、希望です。
僕たちは本当に苦しい時でも、たった一粒の希望さえあればこの世界に留まることができる。
明日に期待しながら眠りにつくことができる。

外国の人から「日本の人たちは皆生き生きした顔をしている」と言われる国。
子供たちが「今も楽しいけど、大人になったらもっと楽しそうだ」と思う国。
1人1人が自分の信じる文化を見つけて、人々の心の潤いと心地よい熱狂に包まれた国。

それこそが僕の考える次のゴール「世界一の文化先進国」です。

「この国はどこに向かっているの?」
子供にそう尋ねられたら、あなたはどう答えますか。

僕ならこう答えます。

「この国は、世界一楽しい国になろうとしているんだ」と。